芳珠寺について
豪族の城は寺となる
故きと新しきを繋ぎ、
人と地域を繋ぐ寺
- 金龍山 芳珠寺にご縁をいただきまして、誠にありがとうございます。
- 当山は名古屋市千種区に位置する臨済宗妙心寺派のお寺です。
その昔、約500年前に豪族たちの城が築かれました。小井出氏が織田信長の父である信秀によって落城すると、やがてお寺は見る影もなく荒れ果ててしまいます。その後、唯一残った地蔵尊をもとに約400年前に再建され、曹洞宗から臨済宗へと改宗し、これを金龍山 芳珠寺と称しました。 - ご本尊に延命地蔵菩薩をお祀りしておりますが、秘仏の為、各年号ごとに一回のみのご開帳でした。2030年からは1年に一回のご開帳が叶いますよう目指しており、より多くの方に是非お立ち会いいただきたいと思っております。
- 尾張六地蔵の六番札所としてご参拝に来られる方や、あらゆる境内イベントへご参加くださる方など、日々多くの方が当寺へ訪れます。お寺はご縁を結び、紡ぐ場所です。芳珠寺にお参りいただき、皆様が良いご縁を結んでいただけますよう、心よりお祈りいたします。
芳珠寺の歩み
- 1947
- 戦後、まだ付近には家が約50軒足らずしかなく、お寺の裏も墓地や竹藪に囲まれていました。都会になったのはつい最近で、この頃はまだまだ”村”だったのです。
- 2000
- バブル期に入り、芳珠寺の周りにも多くの家が立ち並びます。戦後約50年が経ち、この時期が建物の健立ピークだったと言えます。
- 2022
- 令和になり、すっかり車社会として多くの駐車場がつくられます。居住する人々が居なくなった空き家が軒並み壊され、新しい建物が建ち、新しい景色へと変わりつつあります。
ご本尊
延命地蔵菩薩
名古屋最古の寄木造地蔵尊
口伝では、平安時期に小野篁が奥州路へ下った際にあまりの景勝(美しい景色)に足を止め、地蔵菩薩を刻み残した、と伝えられています。それが芳珠寺のご本尊、「延命地蔵菩薩」です。
平成22年に専門教授によって調査したところ、形式的に制作時期は南北朝時代末から室町時代にかけての作品と判明しました。
地蔵尊には珍しく、右足を組み左足を前に垂れた半跏趺座(はんかざ)と呼ばれるお姿をしており、左手に宝珠を、右手に錫杖をお持ちになられています。
小野篁の言伝により、かつては秘仏として各年号に一度の公開でしたが、2030年から1年に一回の公開を目指しています。
当寺を含め、尾張には他に五つの地蔵尊があり、お好きな順路でお巡りいただけます。
境内案内
山門
1684年に建立した山門ですが、昭和の戦禍により消失し、昭和39年に再建しました。
本堂
芳珠寺の本堂も戦火によって失われましたが、その後再建いたしました。「のす体操」や「ストレッチ体操、」「坐禅」の体験など、ここでイベントを行うことも。
延命地蔵菩薩
秘仏として、各年号に一度のみの公開でしたが、2030年からは1年に1回のご開帳を目指しています。名古屋最古の寄木造地蔵尊です。
境内
芳珠寺の境内では、毎朝近隣の方と一緒にラジオ体操が行われたり、夏はお祭りで流しそうめんなどを行います。また、四季折々の花々が境内を彩ります。
弘法堂(不動堂)
江戸の頃は「不動堂」と呼ばれていましたが、いつからか「弘法堂」と呼ばれるようになりました。当時の女性達が集い、弘法講が行われていたのが由来とされています。
三十三観音
江戸時代、古井村の村人達が先祖供養の為に観音様を彫り、お寺に奉納しました。数えてみると、実は35もの観音様がいらっしゃり、また誰かがそっと安置していったお地蔵様や観音様が。
中庭
廻遊式の中庭で、360度どこから眺めても美しく、角度ごとに違った景色をお楽しみいただけます。中心には、1760年に創建した石橋が架かっています。
道標
元々は飯田街道にあった道標で、「(お寺が)ここから1丁半(約164メートル)」との表記がされています。
お寺が市井の中心と
なりますように
ここ近年、地域の交流や繋がりは希薄になってきつつあります。かつて、お寺がみんなの集う場所だったように。大人も子供も繋がり、楽しめる空間を目指し、勢力的に活動をしています。